2011年2月27日日曜日
賛美隊 Almond Tree
白馬賛美大会・関東予選はいよいよ来週になりました。
全員が揃って練習することができないことも感謝し、心を一つに、天に向けての賛美を捧げることができますようにと祈りつつ、練習しました。練習の成果は??? 当日をお楽しみに!
全員が揃って練習することができないことも感謝し、心を一つに、天に向けての賛美を捧げることができますようにと祈りつつ、練習しました。練習の成果は??? 当日をお楽しみに!
2011年2月26日土曜日
2011年2月24日木曜日
明日は横浜カリスマ聖会,バッタも飛び込む
明日は横浜カリスマ聖会の日です。祈りつつ、いろいろと準備をしています。
関内駅下車徒歩5分。26日午後6時30分から、場所は技能文化会館8階801号室です。
「牧場の羊」の特別賛美もあります。お待ちしています。皆さんどうぞお出掛けください。
教会に名前が与えられました。「TLCCC横浜・天の喜び教会」です。
「天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの声を上げよ。
主がご自身の民を慰め、その悩めるものを哀れまれるからだ。」
イザヤ49章13節
それを知ってか知らないでか? 昨日、我が家の玄関に季節はずれのバッタがやってきました。
外はさぞかし寒かろうと、私は早速そのバッタを保護しました。
天の賛美、天の喜びに満たされて、バッタはピョンピョン飛び跳ねて喜んでいます。
うそだぁ~ ぶるぶる震えているよ!
いえいえ、そんなはずはない(^o^)丿
ほらお友達も喜んでいる!
(少し、薄茶色になったバッタは昨年シュロの葉っぱで作ったお手製バッタ)
君も夏には綺麗な緑色だったよね!
それにしてもこの生きたバッタはどこから来たのでしょう!
草むらにも異変がおきているようです。
冬だというのに、バッタです。
2011年2月23日水曜日
富士山と夕日
2011年2月21日月曜日
劇団四季 あざみ野にあり!
2011年2月20日日曜日
サウンドオブミュージック
2011年2月19日土曜日
ミュージカル「The Sound of Music」
2011年2月18日金曜日
親が子の手を求めるとき・・・
今日、鹿児島に里帰りしている教会の姉妹から、お庭の水仙の写メールが届きました。郷里の年を重ねたご両親のために、その手足になろうと彼女は出掛けて行きました。入院していたお母様が退院され、初めてのお父さまからのSOSだそうです。
私も父の介護でずいぶんと郷里へと通ったものです。その父も5年前天に帰り、母は兄の家族と暮らしています。
母のためにももっと帰ってやりたいと思うのですが…なかなか出掛けられない現実です。
「親が子の手を求めるとき」デイヴィット・マッケンナ著(いのちのことば社)という本があります。もうだいぶ前に読んだので、よく覚えていないのですが、介護する者にとって、年老いた両親を敬うということの本当の意味を考えさせられる著書です。
大事なことは、老齢の親が死に近づくに連れて、霊的感性が鋭くなっていくのを見ながら、ボケが進んでいっても、耐え難い痛みに苦しんでいても、簡単な祈りの言葉をいったり、慣親しんだ聖句を唱えたり、好きだった賛美を一緒に歌ったり…年を重ねた親の人生を簡単にあきらめないことでしょうか?
今日も、アルツハイマーの母を思う私です。
私も父の介護でずいぶんと郷里へと通ったものです。その父も5年前天に帰り、母は兄の家族と暮らしています。
母のためにももっと帰ってやりたいと思うのですが…なかなか出掛けられない現実です。
「親が子の手を求めるとき」デイヴィット・マッケンナ著(いのちのことば社)という本があります。もうだいぶ前に読んだので、よく覚えていないのですが、介護する者にとって、年老いた両親を敬うということの本当の意味を考えさせられる著書です。
大事なことは、老齢の親が死に近づくに連れて、霊的感性が鋭くなっていくのを見ながら、ボケが進んでいっても、耐え難い痛みに苦しんでいても、簡単な祈りの言葉をいったり、慣親しんだ聖句を唱えたり、好きだった賛美を一緒に歌ったり…年を重ねた親の人生を簡単にあきらめないことでしょうか?
今日も、アルツハイマーの母を思う私です。
2011年2月17日木曜日
2011年2月16日水曜日
ショー記念館
先日軽井沢駅で移したショー記念館について今日は書きたいと思います。
ショー記念館は、明治21年に在日英国公使館公式司祭をつとめた、アレキサンダー・クロフト・ショーが建てた、軽井沢の別荘の第1号です。軽井沢避暑地発祥の地であり、ショー師は宣教師第1号でもあります。
ショー記念館と礼拝堂があります。軽井沢を避暑地として世界に紹介し「軽井沢の父」とも呼ばれたイギリスの宣教師A.Cショーによって設立された礼拝堂で、軽井沢を訪れる人々の心の憩いの場として開かれています。福沢諭吉のご子息の家庭教師でもありました。
私は郷里に帰る途中、以前は良く立ち寄りました。ひとりで静まってお祈りします。。
http://www.i-turn.jp/karuizawa-syo-kinen-reihaidou-kinenkan.html
2011年2月14日月曜日
2011年2月12日土曜日
信州の実家へ
雪の中、信州の実家へと出掛けてきました。雪景色がとても綺麗でしたが、残念ながら新幹線の中からでは、うまく撮影できません。これは、軽井沢駅ホームで写したショー記念館の写真です。
昨日から振り出した雪は今日も1日振り続けました。
朝日に照らされてその白い雪はキラキラ輝いていました。
89歳の母を見舞い、昨年叔父を失くした叔母を訪ねました。めっきり無口になったその叔母は、私が手のひらを握ったり、開いたりしてみせると、黙ったまま、同じようにグー・パーを繰り返していました。
そのしわくちゃな手の指先はまるまったまま、真っ直ぐに伸びることはありませんでした。
背中をさすり、ただ平安がありますようにと祈らされました。
出掛けていったスパゲッティーのお店で、久しぶりに同級生たちに会いました。美術の先生でもあった担任教師はとてもユニークな先生です。
「蒼の会」展(中学時代恩師と同級生の絵画展プラス布のパッチ)を開くというので、私も作品を一つ出したのです。私の作品はパッチワークなので、「プラス布のパッチ」というわけです。
作品についてはまたいつか。ともあれ、窓辺の木々には氷柱が下がって、きれいでした。
2011年2月10日木曜日
2011年2月7日月曜日
大きな採りたて大根
娘が勤務する幼稚園には、小さな森があって、いろいろな木が植わっています。
自由に森の中を駆け回って遊ぶ子どもたちは、良い環境の中でのびのびしています。
まわりにはいろいろな果物の木も植わっていて、畑もあり、四季折々見て、触って、感じて、食べて・・・
感性が豊かに育つとともに、食育にもつながっているようです。
今、畑には、子どもたちが育てた大根がいっぱい!! だそうです。
毎日大根の話を聞かされて、特に採りたて大根の美味しさを子どもたちと分かち合っていると聞けば、食べたくなるのが人の常!
そこで、毎日娘に催促していたら、とうとう大きな大根2本いただけることになりました。
「求めなさい。そうすれば与えられます」ですよね!(^o^)丿
大根ピザ、味噌マヨステック大根、豚肉のゴマ味噌煮などなど。子どもたちは葉っぱの部分も味噌マヨネーズをつけて、美味しい美味しいと食べるんだそうです。なかなかこれもツーな味! でした。
2011年2月5日土曜日
長崎殉教聖会
わたしは、朝から歩いて浦上天主堂、群れのお墓、十字架山へと、行って来ました。
12時半からは平和記念会館での殉教聖会です。昨日の福岡はとても暖かい日でしたが、なぜか聖会会場の平和会館がとても冷えきっていました。時津の海の上での殉教者を思えば… ですね!
殉教聖会では、環境設定まで合わせたのでしょうかねえ~ オーバーなわたし・・・でも本当に寒かった!
ホテルは平和会館のすぐ下、平和公園の上のパークサイドホテルに宿泊しました。祈りのツアーでは9時に長崎教会に集合して車で行く人を募っていたので、わたしは一足先、8時にはホテルを出ました。
浦上天主堂を左にカトリックセンターを見ながらアンジェラス通りを真っ直ぐに緩やかな坂を上っていきます。
アンジェラス通りには「うみのほし」という名前の保育園がありました。
もう何回も来ているので迷ったりはしませんが、案内役として初めて徒歩で妹を伴ってきた時には、すっかり迷ってしまって行き着くことができませんでした。
上りきった十字路を左に行くとお墓です。
浦上4番崩れというのがありました。激しい迫害の中で潜伏したキリスタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、神父さんを待ち続けました。明治になってキシシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となって、キリストを信じることが認められるようになったのですが、そのためには明治政府によるキリシタン弾圧の中で厳しい迫害と殉教を通過しなければなりませんでした。
そんな中で高木仙右衛門という人が、たった一人、弱さゆえに主に求めて祈り、転ぶことなく、信仰を持ち続けたのです。
彼のお墓の前で、わたしは祈り、賛美しました。
殉教者のために示されて建てられたお墓です。最初に入るのは、殉教者です。この群から、殉教する人がいるといわれています。もうその人は個人的に示しを受けているのでしょうか? きっとそうに違いありません。そして、それはわたしではありません。でも、このお墓に入ることができたら幸せです。
地名を忘れてしまいましたが、聖フランシスコ病院を右手に歩いていくと左側、山の上に十字架山があります。11年前に、主が示されたからといって、初めてわたしを長崎に連れてきてくれた人がいました。
その時2人で上りました。階段が続いていてその坂道は結構ハードでした。しかし、降りる時には「その荷(十字架)は軽い!その荷は軽い!」「あなたに負える十分な荷である…」と語り賭けを受けました。秋だったので、まわりの畑を赤とんぼがたくさん飛んでいました。
十字架山には14本の十字架が建てられています。そして一つ一つの十字架には言葉が刻まれています。
その中の一つの言葉に心がとまりました。「婦人を慰めたもう主」とありました。
傷んでいる婦人をわたしはたくさん知っています。若い20代の母親や、年を重ねたご婦人も!
主がその方々に目を留めてくださっていることが分かりました。私もそのような方のために、用いられたいと思いました。
急いでホテルに戻ってシャワーを浴び、コーヒーとパンを食べて、殉教聖会までの残された時間を西坂の丘で静まろうと思い、路面電車に乗りました。
26聖人が殉教した地に立ち、再び11年前を思い出しました。わたしはこの西坂の地でいやされたのです。流された血潮によって、きよめられ、いやされました。
長崎は坂とネコとご老人が多いところだと思いました。
西坂の丘でベンチに座ったわたしの隣りで、のんびり日向ぼっこしているねこちゃん可愛かったです。
それから、出会ったおばあちゃんがとても親切でした。
会場となった平和会館です。パンジーの花が綺麗に植えられていました。
3時に、聖会が終わると同時に会場を出て、松山町から福岡空港行きの高速バスに乗りました。
およそ2時間で空港に到着。予約していた便よりも1本早い飛行機に変更できたので、おにぎりを一つ購入して、19時25分発JAL羽田行きに乗り込みました。
語られた中で、今、心に一番響いていることばは「主を喜びとしなさい」ということです。感謝します。
日本二十六聖人と浦上キリシタンの歴史について詳しくお知りになりたい方は、み声新聞社発行の「殉教」 ~天国の希望と喜び~ イザヤ木原真著 をお買い求めいただいてお読みになることをお薦めします。定価1200円です。
12時半からは平和記念会館での殉教聖会です。昨日の福岡はとても暖かい日でしたが、なぜか聖会会場の平和会館がとても冷えきっていました。時津の海の上での殉教者を思えば… ですね!
殉教聖会では、環境設定まで合わせたのでしょうかねえ~ オーバーなわたし・・・でも本当に寒かった!
ホテルは平和会館のすぐ下、平和公園の上のパークサイドホテルに宿泊しました。祈りのツアーでは9時に長崎教会に集合して車で行く人を募っていたので、わたしは一足先、8時にはホテルを出ました。
浦上天主堂を左にカトリックセンターを見ながらアンジェラス通りを真っ直ぐに緩やかな坂を上っていきます。
アンジェラス通りには「うみのほし」という名前の保育園がありました。
もう何回も来ているので迷ったりはしませんが、案内役として初めて徒歩で妹を伴ってきた時には、すっかり迷ってしまって行き着くことができませんでした。
上りきった十字路を左に行くとお墓です。
浦上4番崩れというのがありました。激しい迫害の中で潜伏したキリスタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、神父さんを待ち続けました。明治になってキシシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となって、キリストを信じることが認められるようになったのですが、そのためには明治政府によるキリシタン弾圧の中で厳しい迫害と殉教を通過しなければなりませんでした。
そんな中で高木仙右衛門という人が、たった一人、弱さゆえに主に求めて祈り、転ぶことなく、信仰を持ち続けたのです。
彼のお墓の前で、わたしは祈り、賛美しました。
殉教者のために示されて建てられたお墓です。最初に入るのは、殉教者です。この群から、殉教する人がいるといわれています。もうその人は個人的に示しを受けているのでしょうか? きっとそうに違いありません。そして、それはわたしではありません。でも、このお墓に入ることができたら幸せです。
地名を忘れてしまいましたが、聖フランシスコ病院を右手に歩いていくと左側、山の上に十字架山があります。11年前に、主が示されたからといって、初めてわたしを長崎に連れてきてくれた人がいました。
その時2人で上りました。階段が続いていてその坂道は結構ハードでした。しかし、降りる時には「その荷(十字架)は軽い!その荷は軽い!」「あなたに負える十分な荷である…」と語り賭けを受けました。秋だったので、まわりの畑を赤とんぼがたくさん飛んでいました。
十字架山には14本の十字架が建てられています。そして一つ一つの十字架には言葉が刻まれています。
その中の一つの言葉に心がとまりました。「婦人を慰めたもう主」とありました。
傷んでいる婦人をわたしはたくさん知っています。若い20代の母親や、年を重ねたご婦人も!
主がその方々に目を留めてくださっていることが分かりました。私もそのような方のために、用いられたいと思いました。
急いでホテルに戻ってシャワーを浴び、コーヒーとパンを食べて、殉教聖会までの残された時間を西坂の丘で静まろうと思い、路面電車に乗りました。
26聖人が殉教した地に立ち、再び11年前を思い出しました。わたしはこの西坂の地でいやされたのです。流された血潮によって、きよめられ、いやされました。
長崎は坂とネコとご老人が多いところだと思いました。
西坂の丘でベンチに座ったわたしの隣りで、のんびり日向ぼっこしているねこちゃん可愛かったです。
それから、出会ったおばあちゃんがとても親切でした。
会場となった平和会館です。パンジーの花が綺麗に植えられていました。
3時に、聖会が終わると同時に会場を出て、松山町から福岡空港行きの高速バスに乗りました。
およそ2時間で空港に到着。予約していた便よりも1本早い飛行機に変更できたので、おにぎりを一つ購入して、19時25分発JAL羽田行きに乗り込みました。
語られた中で、今、心に一番響いていることばは「主を喜びとしなさい」ということです。感謝します。
日本二十六聖人と浦上キリシタンの歴史について詳しくお知りになりたい方は、み声新聞社発行の「殉教」 ~天国の希望と喜び~ イザヤ木原真著 をお買い求めいただいてお読みになることをお薦めします。定価1200円です。
2011年2月4日金曜日
長崎祈りのツアー ・殉教聖会
400年ほど前の2月5日、長崎で殉教した26人を記念して、毎年、長崎で聖会がもたれています。
そして、今日は祈りのツアーがあり、福岡から バスで、殉教者の足取りを追って、山本村、彼杵、大村湾、時津、西坂へと、行きました。
わたしも、昨日福岡入りし、そのツアーに参加しました。帰ったら、写真をUPします。
わたしは前日、福岡入りしました。この飛行機は羽田出発ロビーで見たハワイ行きです。
朝9時半、福岡空港に集合。祈りのバスツアーは佐賀の山本村へと出発。バスの中は、イザヤ木原牧師の篤いメッセージに耳を傾け、あっという間に山本村へ。賛美し、思い思いの場所に座り込んで祈りこみの時間です。
佐賀の山本村から、とても険しい俵坂を悶々と歩き、一月もの殉教の旅は、終わりに近づいていました。日本二十六聖人はこの「彼杵」の海岸から「時津」に向かって乗船しましたが、この時26人のリーダーであったペテロ・パプチスタ神父は、日本の宣教のため涙を流されました。
彼杵で見た白鷺と水仙です。
何年か前の殉教ツアーの時、雪が降った寒い日がありました。
わたしはその殉教ツアーには参加できませんでしたが、その時の聖会に来た時、前日に降った雪の多さに驚きました。その時のツアーに参加した方が教えてくれました。雪が舞い散る寒い中で、祈りこみをしたとき、道端に雪をかぶってもなお元気に咲き誇っている水仙の花を見て、どんなに励まされたことか!「水仙の花をぜひ探してみてほしい」!と。
それは山本村でのことだそうです。その水仙をわたしは山本村では見つけることができませんでしたが、彼杵で見つけました。「雪の中でも咲き続ける水仙の花のようでありたい!!」
「感謝と賛美」の戦士として、どんな迫害や困難にも負けないでイエス様に従っていけますように!
26人の殉教者たちは、彼杵の港から3隻の舟に乗せられて、時津に向かいました。2月4日夕方6時頃だったそうです。6人の外国人神父以外は全員、首に縄をかけられ、その縄で両手を後ろ手に縛られ、何の覆いもない3隻の舟に分乗させられたまま、凍てつくような夜の海を対岸の時津まで送られたのです。夜中11時頃、時津に着いたのですが、上陸は許されませんでした。時津はキリシタンの町だったので、暴動を恐れたからです。この夜はまさにゲッセマネでした。
朝10時前に出発した祈りのバスツアーはとても良いお天気に恵まれ、主の導きの中、到着地の西坂の丘に着きました。
そして、今日は祈りのツアーがあり、福岡から バスで、殉教者の足取りを追って、山本村、彼杵、大村湾、時津、西坂へと、行きました。
わたしも、昨日福岡入りし、そのツアーに参加しました。帰ったら、写真をUPします。
わたしは前日、福岡入りしました。この飛行機は羽田出発ロビーで見たハワイ行きです。
朝9時半、福岡空港に集合。祈りのバスツアーは佐賀の山本村へと出発。バスの中は、イザヤ木原牧師の篤いメッセージに耳を傾け、あっという間に山本村へ。賛美し、思い思いの場所に座り込んで祈りこみの時間です。
佐賀の山本村から、とても険しい俵坂を悶々と歩き、一月もの殉教の旅は、終わりに近づいていました。日本二十六聖人はこの「彼杵」の海岸から「時津」に向かって乗船しましたが、この時26人のリーダーであったペテロ・パプチスタ神父は、日本の宣教のため涙を流されました。
彼杵で見た白鷺と水仙です。
何年か前の殉教ツアーの時、雪が降った寒い日がありました。
わたしはその殉教ツアーには参加できませんでしたが、その時の聖会に来た時、前日に降った雪の多さに驚きました。その時のツアーに参加した方が教えてくれました。雪が舞い散る寒い中で、祈りこみをしたとき、道端に雪をかぶってもなお元気に咲き誇っている水仙の花を見て、どんなに励まされたことか!「水仙の花をぜひ探してみてほしい」!と。
それは山本村でのことだそうです。その水仙をわたしは山本村では見つけることができませんでしたが、彼杵で見つけました。「雪の中でも咲き続ける水仙の花のようでありたい!!」
「感謝と賛美」の戦士として、どんな迫害や困難にも負けないでイエス様に従っていけますように!
26人の殉教者たちは、彼杵の港から3隻の舟に乗せられて、時津に向かいました。2月4日夕方6時頃だったそうです。6人の外国人神父以外は全員、首に縄をかけられ、その縄で両手を後ろ手に縛られ、何の覆いもない3隻の舟に分乗させられたまま、凍てつくような夜の海を対岸の時津まで送られたのです。夜中11時頃、時津に着いたのですが、上陸は許されませんでした。時津はキリシタンの町だったので、暴動を恐れたからです。この夜はまさにゲッセマネでした。
朝10時前に出発した祈りのバスツアーはとても良いお天気に恵まれ、主の導きの中、到着地の西坂の丘に着きました。
2011年2月3日木曜日
2011年2月1日火曜日
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