2011年2月5日土曜日

長崎殉教聖会

わたしは、朝から歩いて浦上天主堂、群れのお墓、十字架山へと、行って来ました。
12時半からは平和記念会館での殉教聖会です。昨日の福岡はとても暖かい日でしたが、なぜか聖会会場の平和会館がとても冷えきっていました。時津の海の上での殉教者を思えば… ですね!
殉教聖会では、環境設定まで合わせたのでしょうかねえ~  オーバーなわたし・・・でも本当に寒かった!



ホテルは平和会館のすぐ下、平和公園の上のパークサイドホテルに宿泊しました。祈りのツアーでは9時に長崎教会に集合して車で行く人を募っていたので、わたしは一足先、8時にはホテルを出ました。
浦上天主堂を左にカトリックセンターを見ながらアンジェラス通りを真っ直ぐに緩やかな坂を上っていきます。
アンジェラス通りには「うみのほし」という名前の保育園がありました。

もう何回も来ているので迷ったりはしませんが、案内役として初めて徒歩で妹を伴ってきた時には、すっかり迷ってしまって行き着くことができませんでした。
上りきった十字路を左に行くとお墓です。

浦上4番崩れというのがありました。激しい迫害の中で潜伏したキリスタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、神父さんを待ち続けました。明治になってキシシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となって、キリストを信じることが認められるようになったのですが、そのためには明治政府によるキリシタン弾圧の中で厳しい迫害と殉教を通過しなければなりませんでした。
そんな中で高木仙右衛門という人が、たった一人、弱さゆえに主に求めて祈り、転ぶことなく、信仰を持ち続けたのです。
彼のお墓の前で、わたしは祈り、賛美しました。

殉教者のために示されて建てられたお墓です。最初に入るのは、殉教者です。この群から、殉教する人がいるといわれています。もうその人は個人的に示しを受けているのでしょうか? きっとそうに違いありません。そして、それはわたしではありません。でも、このお墓に入ることができたら幸せです。

地名を忘れてしまいましたが、聖フランシスコ病院を右手に歩いていくと左側、山の上に十字架山があります。11年前に、主が示されたからといって、初めてわたしを長崎に連れてきてくれた人がいました。
その時2人で上りました。階段が続いていてその坂道は結構ハードでした。しかし、降りる時には「その荷(十字架)は軽い!その荷は軽い!」「あなたに負える十分な荷である…」と語り賭けを受けました。秋だったので、まわりの畑を赤とんぼがたくさん飛んでいました。

十字架山には14本の十字架が建てられています。そして一つ一つの十字架には言葉が刻まれています。
その中の一つの言葉に心がとまりました。「婦人を慰めたもう主」とありました。
傷んでいる婦人をわたしはたくさん知っています。若い20代の母親や、年を重ねたご婦人も! 
主がその方々に目を留めてくださっていることが分かりました。私もそのような方のために、用いられたいと思いました。

急いでホテルに戻ってシャワーを浴び、コーヒーとパンを食べて、殉教聖会までの残された時間を西坂の丘で静まろうと思い、路面電車に乗りました。
26聖人が殉教した地に立ち、再び11年前を思い出しました。わたしはこの西坂の地でいやされたのです。流された血潮によって、きよめられ、いやされました。

長崎は坂とネコとご老人が多いところだと思いました。
西坂の丘でベンチに座ったわたしの隣りで、のんびり日向ぼっこしているねこちゃん可愛かったです。
それから、出会ったおばあちゃんがとても親切でした。

会場となった平和会館です。パンジーの花が綺麗に植えられていました。
3時に、聖会が終わると同時に会場を出て、松山町から福岡空港行きの高速バスに乗りました。
およそ2時間で空港に到着。予約していた便よりも1本早い飛行機に変更できたので、おにぎりを一つ購入して、19時25分発JAL羽田行きに乗り込みました。
語られた中で、今、心に一番響いていることばは「主を喜びとしなさい」ということです。感謝します。
日本二十六聖人と浦上キリシタンの歴史について詳しくお知りになりたい方は、み声新聞社発行の「殉教」 ~天国の希望と喜び~ イザヤ木原真著 をお買い求めいただいてお読みになることをお薦めします。定価1200円です。

0 件のコメント:

コメントを投稿